◎ 九鬼隆範(りゅうはん)の足跡

 九鬼隆範は天保6年(1835年)三田藩の鉄砲隊長を務めた越賀六兵衛隆影の三男として三田屋敷町に生まれる。幼名範三郎のち範三。

 藩校造士館で学び、嘉永6年(1853年)には伊豆韮山の江川太郎左衛門(幕府の砲術師範)に入門し、砲術、用兵学を学ぶ。

 元治元年(1864年)に勝海舟が開いた海軍塾に入り、佐藤政養(与之助)に指導を受ける。佐藤は西洋砲術と測量術を学び、のちに「日本鉄道測量の父」と言われた人で、佐藤との出会いにより隆範の一生に大きな影響を受ける。

 明治3年(1870年)に三田藩家老九鬼伊織(隆継)の長女やすと結婚し、家督相続の養子になる。

九鬼 隆範


 明治3年(1870年)に佐藤政養に従って日本鉄道局に入り、日本で初めての新橋-横浜間の鉄道建設の測量や設計に携わる。明治5年(1872年)に新橋・横浜間が開業した。

 明治7年(1874年)には大阪・神戸間の開業に携わる。

 明治9年(1876年)頃、三田屋敷町に旧九鬼家住宅を建てる。 

 以降、長浜-敦賀港間や東京・髙﨑・前橋間など数多くの鉄道の測量や設計に従事し、明治26年(1893年)に鉄道局を定年退職(59歳)。

 その後、日本鉄道会社に勤めるが、明治35年(1902年)頃、三田に戻る。

  明治41年(1908年)三田にて永眠。(享年74歳)

1887年頃の横浜停車場

(「鉄道コム」より)



 明治維新は武士階級の地位を根底から覆し、自ら生活の糧を得る道を切り拓かなければならなくなったとき、隆範は身に付けた測量の技術をもって草創期の「鉄道」に入りました。

 当初の鉄道はイギリスの指導のもと技術を導入し、隆範もイギリス人技術者に付いて鉄道の測量に従事しています。すぐさま鉄道測量技術を習得し、測量術の解説書「測地必携」(共著:明治10年2月)を著しています。

 鉄道技術を日本の技術として確立する上で大きな貢献したと言えます。

 

 三田に帰郷後、隆範は謡曲を楽しみ、菊作りなどの園芸に親しむとともに、「絵を描く」趣味を持ち、立杭焼の陶器に絵付けなどをしています。

 この絵心あればこそ、旧九鬼家住宅の「着色された立面図」を描き、天覧に供した「京神間鉄道線図」も描かれたのでしょう。京神間鉄道線図の美しさと精密さには驚くべきものがあります。